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編集長ブログ

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交流会や講演会、「九州のムラヘ行こう」のプレ取材のためにほぼ1年中、九州各地を渡り歩いている編集長、養父信夫。下戸にも関わらず、酒宴の席でもあっという間にその場の雰囲気に馴染んでしまえるという得意技を持ちあわせた編集長が、地域を巡り歩く中でムラの四季折々の姿に触れ、土地の人と言葉を交わして感じたコトを文章にしました。これまで「九州のムラ」の各号で書いてきた編集後記も一部掲載しています。 









 

 

 

 

 

養父信夫プロフィール

「九州のムラへ行こう」編集長

1962年6月22日生まれ。福岡県宗像市(旧大島村、玄海町)で幼少を過ごす。
86年、九州大学法学部法律学科卒。同年(株)リクルート入社。 
98年に独立し都市と農村をつなぐグリーンツーリズムを広げる活動を開始。
同年、「九州のムラ」の発行にたずさわる。現在同誌編集長として、地域に生きる人々の暮らしを中心に取材を重ね、マチとムラを繋げる。 
また講演や地域づくりのアドバイザーなど、グリーンツーリズムやスローフード運動の啓蒙活動も積極的に行っている。
2005年からは(株)マインドシェアに統合し、全国のムラ事業展開に向けて準備中である。 

熊本大学社会文化科学研究科博士課程在学中 
九州農政局 九州地域食育推進フォーラム委員 
「豊かなむらづくり」全国表彰事業九州ブロック審査員 
大分県グリーンツーリズム推進協議会委員 
長崎県グリーン・ツーリズムビジネスアドバイザー 
熊本県小国町「九州ツーリズム大学」非常勤講師 
大分県安心院町 「大分・安心院グリーンツーリズム実践大学」副学長 
「九州のムラ 食の学校」校長 
総務省 地域力創造アドバイザー
「九州のムラたび応援団」団長  ほか


ムラの生命をマチの暮らしに、

マチの活力をムラの生業に。

                         九州のムラへ行こう 編集長

                          養父 信夫


都市部と農村を繋げ、ムラに活力をという思いで始めた「九州のムラ」という雑誌(今は「九州のムラへ行こう」に誌名変更)。早いもので14年になる。

その間、ムラはどう変わったのか。


日本の「村」の原型は、江戸時代から昭和30年代までは、さほど変わってはいない。急激に変ったのは戦後からのこの半世紀である。ムラは解体され、ムラから解放された次男坊、三男坊がマチに出て、日本の高度経済成長を支えてきた。土地、家に縛られ、今朝のウチの出来事が、その日の夕方にはご近所に知れ渡るといった因習的な「村」は「遅れた存在」として、置き去りにされてきたのである。

それでも、長男坊を中心に、先祖伝来の土地を営々と耕し、何とか「村」を維持してきた。「村」のお役人も一緒に汗水ながし、村おこしをやってきた。

しかし、その村も大合併で次々に消滅し、昨今は限界集落という言葉も囁かれ出した。

村はこのままなくなってしまうのか。

否である。

行政区分の「村」は確かに急激に淘汰された。しかし、"人群れるところすべてムラである"ところの"ムラ"は、そこにムラ人たちが暮らし続ける限りは存在し続けるのである。

しかも、第三のムラ人として、その"ムラ"にマチで暮らす人々が関わりはじめている。幼少期にムラで暮らした人たちは、土の匂い、虫の声、祭りの囃子、炊きたての新米の

香り、それに玄関先に置かれた土付きの野菜など、農村的文化にもう一度触れたいと農村

に回帰していく。また、全く農村で暮らしたことのない若者や、根っからの都市住民は、

疎外された都市生活をリセットし、理想郷としてのムラ、つまりユートピアとしてのムラ

を追い求めはじめている。中にはそれは幻想と気づき、離れていく人もいるが。


グリーンツーリズムとは、地域でとれた農産物をマチの人たちが買い、ムラの旨食を味わい、さらには民泊するなどして、マチとの交流によってムラの経済を創り出すことである。農産物直売所はその数はピークの時期を過ぎ、これから淘汰されていくであろうが、農家レストラン、農家民宿など、その数はここ10年、徐々に増えている。

グリーンツーリズムがもたらすものは、経済効果だけではない。農村で先祖伝来の土地を守りつづけ、収穫に喜び、あるときは大自然の脅威に畏れ、地道ながらも一歩一歩大地を踏みしめ、家族や集落のムラびとたち、それと自然と共に生きてきた、ムラ人たちの生き様、価値観、ライフスタイルを見つめ直す運動でもある。

ヨソものであるマチの人間によって、ムラが持っている価値をムラ人たちは再認識する。同時にマチ人たちも、本来われわれ日本人が持っていた感性を取り戻し、生きる力をいただくのである。

マチとムラの両方にとって、「食」は繋ぎ役となる。命の産業である農漁業を生業とするムラ人たちとの交流は、"生命(いのち)"のことを感じ、学ぶことにつながっていく。食事のときに"いただきます"という言葉の意味を、頭ではなく五感と心で理解するためにはムラの暮らしに触れることである。


 私は福岡県宗像(むなかた)の神官の息子として生まれた。宗像はアマテラスオオミカミとスサノオノミコトとの間にお生まれになった三女神を絶海の孤島・沖ノ島(沖津宮)、それに筑前大島(中津宮)、田島(辺津宮)にお祀りしている神社である。宗像の神々は漁村農村に暮らす氏子としてのムラ人たちによって、いにしえより篤く支えられてきたのである。

ムラの取材のときには、その土地の氏神様に手を合わせる。最近気になることは、お社(やしろ)だけではく、境内も荒れ、ムラ人たちの手が入っている気配がない神社が増えていることである。農林業が厳しくなり、ムラ人も少なくなくなり、祭りも担い手を確保するのに毎年苦慮している。その祭りも何とか行政からの支援で維持しているところも少なくない。

もはやムラはムラだけで生きることは難しい時代なのである。マチと手を繋ぎ、ムラの生命をマチの暮らしに繋げながら、同時に「マチの力=活力や経済力」などをムラとつなげ、新たなムラの生業を創っていくことがお互いに求められているのである。


九州各地のムラでも、マチとのさまざまな交流が花を咲かそうとしている。大分県の宇佐・安心院では『農村民泊』と呼ばれるムラのお宿でマチとの交流を深めている。熊本県の阿蘇では、阿蘇の大自然、阿蘇神社の参道沿いの商店街の若者たち、牧野組合や高原野菜の農家たちが、それぞれの形で交流を行っている。また長崎の松浦や小値賀島、西海地域では、マチの子どもたちを2、3日預かり、自然の中で生きる楽しさ、力を教えている。宮崎の高千穂でも、神楽を年中奉納できるよう民家を移築し、そこで交流し、希望があれば神楽もふるまう。小さなムラのこのような取り組みは、ムラに活力を与え、交流し続けたマチの人々の中には、新たなムラ人として移り住む者も出始めた。


"ムラの生命をマチの暮らしに、マチの活力をムラの生業に"

このマチとの交流が、これからのムラを拓き、ムラの文化を繋げる力になってくれる。

これからもマチとムラとの交流の息づかいを伝えていきたい。


明けましておめでとうございます。
本年も「九州のムラへ行こう」ともども、よろしくお願い申し上げます。

昨年発行号から、念願の季刊誌となりました。
お屠蘇気分抜け切れない今週から既に、次号3月20日号の発行に向けて編集会議と 
本始動しております。

今年も"ムラの生命をマチの暮らしに、マチの活力をムラの生業に"を
モットーに、ムラの息吹をお届けしていきたいと思っています。
みなさまの変らぬご支援、よろしくお願いいたします。

思い起こせば、先代編集長と一緒に「九州のムラ」の立ち上げに携ったのが、13年前、
(株)リクルートを辞め、九州のグリーンツーリズムを広げ、ムラを応援すべく独立して
始めた第一歩が雑誌づくりでした。

"自分が納得できる米ば、なかなか作れません。まだ30回しか作っとらん"
(福岡の星野村で30年米を作っているムラ人からの一言)

"「環境」ちゃ何ね?わたしゃ、見た事も、食べたこともなかよ"
(山水をひき、生活排水を自分の田んぼに米を作っている、水俣のおばあちゃんの一言)

"昔は「木六、竹八」ちゅうて、(用材を一番活かす)木や竹を切る時期を知っとった"
(椎葉の山村で、炭焼をしている70代のおじちゃんからの一言)

などなど、ムラを巡ると、先人たちが残してきた叡智、自然との関わり方、生き方含め、
学ぶこと、次世代につなげなくてはいけないことが、見えてきました。

「九州のムラへ行こう」は、マチに暮らす私たちが、忘れてはいけないこと、例えば 
農、林、漁業など第一次産業のことや、環境や食のこと、観光、グリーンツーリズムはじめ、
地方の活性化など、21世紀のキーワードが詰まっています。これらは、都市住民の意識、
行動如何が大きく左右してきます。

雑誌「九州のムラへ行こう」、それに「九州のムラ市場」「Gazoo mura」などの
自分が携って立ち上げてきたムラプロジェクトの数々は、ムラに目を向け、ムラとの接点を
持ってもらうためのきっかけです。

一人でも多くのマチの人々が、ムラ人との心の交流を通して、九州にとって、日本にとって、
地球にとって、これから何を大切に生きなくてはいけないのか、何をしなくてはいけないのか、
一人一人が考え、行動におこすきっかけが作れればと思っております。

九州のグリーンツーリズムの実践者とそれを応援するマチの応援団とが手を携わったネット
ワーク組織、「九州のムラたび応援団」ともども、本年もよろしくお願い申し上げます。



                             平成22年 1月吉日

                             九州のムラへ行こう 編集長

                             養父 信夫
「九州のムラへ行こう」 ・・・14年のあゆみ
~ムラの生命をマチの暮らしに、マチの暮らしをムラの生業に~
 
創刊号「九州の村」、人群れるところすべてムラである。「九州のムラ」へ。

1995年、その当時九州7県の62村に暮らす人々のライフスタイルを伝える雑誌として創刊されました。その後、平成の合併により全国の村々は消えていきました。"人群れるところ、すべてムラである"という考えのもと、97年には「九州のムラ」とし、都市と農村とをつなげる雑誌として再創刊しました。人々がその地で暮らしている限りは"ムラ"はあり続けるのです。コンクリートに囲まれたマチの暮らしの中では、なかなか命の大切さを実感することが難しくなっています。農林漁業を営むムラ人たちとの交流が、我々人間も大自然の営みの巡りの一部であることを教えてくれるでしょう。一方、ムラ人たちもマチと繋がることによって、農家民宿、農産物直売所、農家レストランなどムラの新たな生業(なりわい)を紡ぐことにもなるでしょう。
「九州のムラ」はこの理念のもと、グリーンツーリズム、スローフードなど「旅」や「食」のテーマを中心にムラの魅力を伝えて続けてきました。2007年、"啓蒙から実践へ"の考えで、実際にマチに住む人々が実際にムラに出かけて欲しいとの思いで「九州のムラへ行こう」とリニューアルしました。これから季刊誌として皆さんにムラの息吹を伝えてまいります。

雑誌「九州のムラ」の理念から「九州のムラ市場」誕生
2004年7月、マリノアシティ福岡に「九州のムラ市場」がオープン。九州は全国的にも農産物直売所が元気な地域。秋のイベント「ムラの収穫祭」は九州各地の"ムラの旨食"が楽しめます。

トヨタ自動車「Gazoo mura」にてグリーンツーリズム情報発信
マチとムラとを車とインターネットでつなぐ「Gazoo mura(ガズームラ)」プロジェクトが立ち上がりました。九州では14地域のムラ人たちがブロガーとして参加。ムラの魅力をお伝えします。
http://gazoo.com/mura

ロイヤル空港レストラン「ムラのカレー」販売開始
「九州のムラへ行こう」プロデュースにより福岡空港2Fレストランにてムラの食材を使ったカレーライスの新メニューがお披露目。第一弾は熊本県小国町のジャージー牛乳を使ったホワイトカレー。今後はムラの規格外食材も活用し、ムラの新たな生業づくりを応援します。

2009年6月10日 養父信夫
 年の瀬の風物詩、清水寺での世相を現す一文字は、国民にとっては、喜ばしからぬ字が描かれた。そんな1年の中で、東国原宮崎県知事の奮闘ぶりに一筋の光を感じた方も多かったのではなかろうか。「九州のムラへ行こう」の連載企画として宮崎県北の高千穂町、五ヶ瀬町、椎葉村、美郷町、西都市など神話にゆかりの地を巡る「ひむか神話街道」を特集しているご縁もあって昨年、知事と対談をさせていただいた。
天孫降臨の神話の舞台は高千穂である。宮崎県の高千穂と鹿児島県境の霧島の高千穂峰(かの坂本龍馬の天の逆矛逸話の地)とその地については説が分かれるが、近年某人気番組に出演する霊能者が高千穂内のパワースポットを紹介したことから、遠く関東圏からも若き女性の一人旅も見受けられるようになったとか。知事も始めて高千穂を訪れたとき、天岩戸神社のとあるパワースポットで"国政ではなく、宮崎県政に就かれるよう"神の啓示を受けられたという。(詳細は是非弊誌21号をご覧いただきたし)
高千穂という地名の由来は、アマテラスオオミカミの子孫にあたるニニギノミコトが天孫降臨された際、真っ暗だったこの地に黄金色の千の稲穂を蒔き、この世を明るくして降り立ったこととされる。その土地の名前には、歴史、営み、風土など地域のDNAが刻まれている。近年は市町村合併による安易な新市町村名が増えているのは如何なものであろうか。知事の登場は、まさに日出ずる日本の東の国原である宮崎から暗澹とする地方行政に光を照らす役割という風にも感じた。
高千穂は11月から2月までの農閑期、19の集落で夜を徹して夜神楽が奉納される。高千穂神社境内にある神楽殿では年間通して毎日20時から1時間程度、有料にて観光神楽を鑑賞することもできるが、集落で舞われる極寒のなかでの夜神楽も是非機会があれば体験してみてはいかがであろうか。

お正月は日本中の神社は参拝客で賑わう。父が宗像大社の神官だったこともあり、我が家にとって、お正月は特別な時間であった。紅白歌合戦が終わって、除夜の鐘が鳴り響き、父が出社するころから、大社に続く釣川沿いの県道を初詣に訪れる車のランプが何百台も連なりはじめる。父はそれから三が日の間は大社に寝泊りである。神官の家だけではなく、年の始、月の始、日の始にあたる三始の元旦は特別な日である。若水を兄が汲み、神棚にご神饌とともにお供えし、その水で雑煮を炊きいただく。もちろんお年玉は子供たちにとっては何よりも嬉しいものであったが。余所行きの服に着替え、午前中に大社に初詣にいく。一年の計は元旦にあり。やはりこの日にひくおみくじが意味ありと妙に信じている自分がいる。不思議と小さいときは大吉ばかりひいていたので、おみくじはすべてそうだと思っていたのだが、大人になると神様も試練をお与え給うたか、なかなか大吉に巡り合わせていただけない。

『かけまくも畏(かしこ)きイザナミノオオカミ、筑紫の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)のアワギガハラに禊(みそぎ)祓え給いし時に、生(な)りませる祓戸(はらえど)の大神(おおかみ)たち、もろもろの禍事(まがごと)罪穢(つみけがれ)を祓え給え清め給えと申すことを聞こしめせと、かしこみかしこみ申う申す』
自分にとっては、神官が上奏する大祓祝詞といわれる一般によく耳にする祝詞は馴染みがある。
この全国共通の祝詞を高千穂の五ケ村というムラの人たちは自分たちの集落の祝詞と思っていた。天孫降臨の神話ゆかり地であるこの集落は、天岩戸神社の氏子の集落であり、天岩戸神社はその名のとおり、夜神楽のメインストーリーともなっている物語の地である。アマテラスオオミカミがお隠れになり、世の中が真っ暗になったとき、神様が寄り集まって知恵を出し合い、いかに天岩戸を開けるかを話し合った。その場所が「天安河原(あまのやすかわら)」であり、アマノウズメノミコトが乳房を露に踊り舞い、神様が歌い笑い、飲み賑わった様子をちょっと覗いた瞬間、タジカラオノミコトが岩戸も開け、アマテラスオオミカミがお出ましになり、目出度し、メデタシという記紀の物語である。ちなみに投げ飛ばされた岩戸は遠く信州、長野県の戸隠(とがくし)村まで飛んだとか。
五ケ村集落の字(あざ)の名前には祝詞の中に出てくる「橘」も「小戸」も「アワギガハラ」もある。集落の人々が祝詞を自分たちの集落の祝詞と思ったのも合点がいく。地名にその地域の歴史、物語がしっかり刻印されていたのである。

「ムラたび」に出かけよう。
弊誌の中で毎号、「ムラたび」なるものをご紹介している。物見遊山的な観光ではない。「たび」の語源は、"他火"または"給べ"だとか。諸説はあるが、昔の「たび」はまさしく他人様の施しを給わりながらも、ご利益、功徳をうけるために難行苦行の「たび」であったのである。異国でトラベルの語源がトラブルであるのと同様である。その後、豊な時代の中で、「たび」は物見遊山的な観光・ツアー化してしまった。そして全国の観光地の多くは閑古鳥が鳴き始めている。これからは俗化した「観光」ではなく、まさに「たび」の時代である。「たび」の原点である他人様・ムラ人との交流から始めたい。昔、囲炉裏の火を分けてもらったように、今は囲炉裏ではなく同じ食卓を囲み、ともに飲み、食べ、そこでとれる大地の恵みをいただく。ムラびとたちとの心の交流を育むには、ムラ人が営むお宿が良い。最近は農家や漁師が営むお宿も人気である。ムラ人と語らえば、その地域固有の物語に触れることもできる。ムラの風土、風景、風味、風習、風俗、風格、風評などムラに吹く風を五感で感じ、ムラの暮らしに触れる。そんな旅が「ムラたび」なのである。
 (電気と九州 2008年1月号への寄稿文から)               平成20年1月8日 養父信夫
先日、廃校を拠点に交流活動を行う地域のみなさんに呼んでいただきました。確か2年前、安心院のグリーンツーリズムの総会の時に、「安心院のグリーンツーリズムの今後の提案」というテーマでお話させていただいた時に、隣の本耶馬溪町から来られてたのが、「西谷ふるさと村」村長の河野さんという方です。
ホームページ(http://www15.ocn.ne.jp/~npx/)で覗いてみると、なかなか活発に活動されている様子。今回は夜の会ということもあり、泊りがけで出かけてみました。

「恩讐の彼方」「青の洞門」「禅海和尚」・・・

平成17年3月合併により大分県中津市となった本耶馬溪町。
本耶馬溪町といえば、皆さんご存知の「青の洞門」で有名な地です。 禅海和尚が約330年前に、何と30年かけて掘り抜いた隧道(トンネル)です。
底冷えする夜の交流会で、この「青の洞門」の禅海和尚の話が地元の人たちを熱くしていました。
菊池寛「恩讐の彼方に」で一躍全国区となった「青の洞門」。「恩讐の彼方」の中では、人をあやめた禅海和尚が、奇岩絶壁に渡れず困っていたムラ人を救うため、罪滅ぼしのために30年かけて洞窟を掘るという設定で語られています。
ところが、地元では「禅海和尚は人をあやめてなんかおらん」。「菊池寛は地元には来とらん。あれは机の上で書き上げた物語」「純粋に人助けのために掘ったんじゃ」ということ。地元の観光パンフレットの中では「恩讐の彼方」説で書かれているものもあり、観光のためには必要なんじゃというものと、いや地元のために命をかけて巨岩と向かい合った和尚を正当に後世に伝えたいというものと、酒の勢いもあり、あわや掴みかかりそうな状況。
そこを割って話を聞いてみると。

中津平野への水確保が「青の洞門」を生んだ。

洞門があった位置より下に、もともと川沿いの道があったとのこと。そこが、中津平野に水を送るために「荒瀬堰」を作ったことにより(今でも中津までも水路は現存し、使われている)水位が上がって、川沿いの道が水面下に埋まって、"崖の鎖渡し"と呼ばる危険なルートになってしまったということである。巨岩に足場を組んで、鎖を渡して、ここを牛馬を引いて渡った。確かに人だけであれば、滅多に落ちることは無い。牛馬は中津宿場の積荷(炭、農産物など)を積んだムラ人たちの重要な生活資源であった。
禅海和尚は、全国を旅して青の洞門に難儀しているムラ人たち見かけた。多分ムラ人からここで幾人も命を落としたことを聞いたであろう。そこで和尚は、一念発起し、30年かけて洞窟を掘った。ということである。難儀している人々も目の前にして、純粋に彫った。彫り続けた。ということである。

風土、風景、風味、風習、風味、風格、風情・・・。

ムラには固有の風が吹いている。
ムラに入ると、かならずそこには人がいて、人々に語り継がれる物語があります。地域固有の地勢の上に風土があり、その風土が風景をつくり、植生を育み、風味と生み出し、人々の気質を作っていく。

集落に多い苗字(集落名=苗字ということも多い)、集落の字の名前("字界図"として役場でもらえることもあり)からも、地域の潜む物語を伺い知れたりもする。囲炉裏を囲み、酒を酌み交わし(といいながら私は下戸なので雰囲気を飲むだけですが)、ムラ人たちと膝をつきあわせ、交流し、その地域に息づく物語を共有することで、訪れた地域が、自分にとって単なる通りすがりの地ではなく、特別な地となってくる。
目の前の山々が、川が、朝日が、夕日が、草木が、風が、特別な意味を持って語りかけてくれる。

今週末2月11日(日)、どんど焼開催!

もともと「左義長」とよばれる宮中の行事だとか。旧正月に行う厄払いの行事。このあたりでは「どんど焼」と呼びます。竹を組み、高さ6~8メートルにもなったどんどに火入れを行います。「バーン、バーン」と竹がはじける音がすさまじいとか。
この日は本耶馬溪町8箇所で行われる。
西谷では下組、中組、上組の3箇所で行われ、
上組どんど焼は樅木の田んぼで17時から火入れが行われ、
中組のどんど焼は秋永橋の横の空き地で17時半からの火入れである。
約2、3時間焼き、どんどが倒れると同時に焼餅を開始するのが慣わしだとか。
焼いた餅は無料配布され、無病息災のありがたい餅となる。
竹のさおの先に針金で餅を吊るし、自分で焼く。醤油でも。そのままでも。地元では翌日
の朝、雑煮でも食べていたらしい。
嬉しいことにヨソからのものも、先着で餅(竿付)をいただけれとのこと。
日頃なかなか家族サービスもできない私も、この日はどんど焼きを見せて、たまがる顔見
たさにわが子を連れて参加する予定です。
是非、皆さんもどうですか。

夜に及ぶどんど焼に参加したら、やはり泊まらないと。翌日は休日ですし。
嬉しいことに、町が作った交流施設「西谷温泉」には
ログハウス、茅葺屋根の囲炉裏付の家もあり、
ちょうど創立10周年ということで、1棟基本料金11000円が5000円で泊まれる
とのこと。(基本料金プラス大人一人当たり1000円、子供(3歳以上12歳まで)1人
当たり500円という価格です。
全部で12棟ですので、もし泊まられる方は早めにご予約を。(直接下記電話に)
問い合わせ先;0979-53-2100(8時から20時)
大分県中津市本耶馬渓町西谷1448
詳細の情報は上記ホームページにて確認できます。

*ちなみにこの西谷地区、美味しい米どころでも有名なところ。食堂のおむすび、だこ汁定食、それにこのあたりはなんと言ってもから揚げ王国。から揚げも絶品でした。(中津市では某大手から揚げチェーン店が撤退したとか)

2007年2月19日 養父信夫
●今年も一年、ありがとうございました。

今年から、名詞交換させていただいた皆さま、「九州のムラ」を購読、応援していただいている皆さま地域づくりで九州各地域でご一緒させていただいた皆さまなどなど、10年間の私の活動の中で、多くのご縁をいただいた皆さまにメルマガをお送りさせていただきました。
グリーンツーリズム、スローフードなどの活動を通じ、地域の皆さんが一生懸命に「農ある暮らし」を守り、次世代に繋げていこうとする姿を、少しでもお伝えできればと思っております。

来年もよろしくお願いいたします。

今年は喪中(家内の父)ですので、新年のご挨拶は控えさせていただきますが、この場をお借りし、今まで「九州のムラ」を応援いただいた御礼をさせていただければと思います。

今年夏に19号を発刊し、10年を節目に今まで皆さんにも親しんでいただいた土器修三さんの表紙
デザインからリニューアルし、内容も農家民宿、農家レストランなどの交流拠点の情報を増やし、特集した地域のアクセス情報、ツーリズム商品への案内など、地域に暮らすムラ人たちの地域づくり応援雑誌から、マチに暮らす人々にムラを知ってもらい、実際に地域を訪れるきっけを作る雑誌として、徐々に舵をきりはじめています。来年春発行に向けて準備を進めている20号は、よりその方向性を明確に打ち出し、『ムラの命をマチ暮らしに、マチの力をムラの生業に』という考えを、実践すべくマチとムラの心の交流から、旅「ツーリズム」や食「スローフード」を軸とした新しい生業を、地域に芽生えさせるきっかけを創っていければと思っています。

●新しい形の地域づくりを目指したい。
この10年、「九州のムラ」の雑誌づくり、地域づくりのお手伝いを通じて、感じていることがあります。全国のグリーンツーリズムの大会に参加しましたが、そこでの話題は、「もはや地域づくりは行政だけでは難しい」ということです。近年、特に全国に吹き荒れる「市町村合併」は、"ムラで起こった大きな出来事"から"マチで起こった小さな出来事"に、変質させ、合併される周辺町村は、新市の議員を送り出すことも、民主化という数の論理の中で苦戦を強いられ、地域づくりが滞っているのが実情ではないでしょうか。もちろん、そのような状況をフォローする事業が国、県、各市町村で新たに組まれることもありますが。しかし、地域づくりのコンサルが地域を作っていく訳ではありません。最終的にはそこに暮らすムラ人一人ひとりが地域を創っていくのです。
ただ、そこに至るまでの過程においては、本当の意味での「産・官・学」連携、それぞれの専門業種のパートナーシップという視点が重要だと感じています。
特に、『産』の部分、つまり民間の力です。従来は地域に暮らす商売をやられている民間という程度の捉え方で語られていたような気がしますが、そうではなく、マチ側の民間とも、あるところではしっかり手を携えるということが必要だと思っています。

 イタリアのスローフード協会が主催する食の祭典「サローネ・デル・グスト」を見て、九州でも都市部に、地域の生産者の思いを伝え、経済にも繋がる場をという思いの中で、福岡市内の商業施設内に「九州のムラ市場」を企画し、夏休みの期間、子供たちが自然にもっと触れ、体験を通じて逞しく育って欲しいという思いから、JR九州さんと「わくわく体験チケット」という商品を企画し、そして今回のトヨタ自動車さんとの「Gazoo mura プロジェクト」も、カーナビ、携帯、パソコンというメディアを活用し、より深い理解の中で、マチとムラとが交流をして欲しいという思いの中で実現したプロジェクトでもあります。昨日は担当の南という「九州のムラ」スタッフが大分の安心院を訪れ、農村民泊を営む地域のおばちゃんたちに、パソコンの使い方、ブログの書き方など教え、おばちゃんたちも慣れない手つきで、楽しそうに話を聞いていただいたということです。
来年からは「地産地消」プロジェクトを推進するキリンビールさんとも「食」をテーマにマチとムラを繋げるムラプロジェクトを始動したと思っております。

現在、休学中ではありますが、熊本大学で、農村の研究を徳野教授のもと、勉強しています。よく先生が口にされる『消費される村と農』という言葉。今までムラはマチから搾取されてきた存在という面も持っています。自分たちの活動が、その動きに拍車をかけるだけのものなのか、否「消費もされないムラ」は、消え行くだけなのか。
常に自問自答の毎日ではありますが、『ムラの命をマチの暮らしに、マチの力をムラの生業に』を原点に、お互いにとって、よりよい繋がり方を模索し、これからもやろうと思っております。

来年も、皆さんの変わらぬ応援、ご支援、ご協力をお願いいたします。
正月は、実家宗像で家族と過ごす予定です。ゆっくりメールも見れますので、皆さんの近況、ご意見、辛口批評なんでも結構ですので、一声かけていただければと存じます。

来年もよろしくお願いいたします。来年も皆さまにとってよい年でありますように。
2006年12月29日 養父信夫
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雑誌「九州のムラ」は1995年、沖縄を除く九州7県にあった62村の情報発信の雑誌「九州の村」として産声を上げました。その後98年の通巻3号からは「九州のムラ」と誌名を変え、市町村合併に左右されずに行政区分上の【村】ではなく"人群れるところすべてムラである"という考え方のもと、昔ながらの集落【ムラ】に生きる人々に焦点をあて、私たち日本人が忘れかけた大切なもの~豊かさ、幸せ、生きる意味~を探し続けてきました。
自然と共に生きてきた日本人は、虫の声までをも心地よい調べとして愛で、食であれ、芸術であれ、自然の営みにならい、独自の世界観、感性を育んできました。外国(ヨソ)から評価され、初めて気づく我が国の素晴らしさもあるはずである。それはsamurai(侍)、sake(酒)、manga(漫画)だけではありません。"春潤い、夏笑い、秋装い、冬眠る"と表現してきた四季折々の森の風景、各地に残る五穀豊穣への感謝の祭り、神々が宿る鎮守の森、田植え時の里山の風景や黄金色に輝く麦秋の畑などなど。もっと多くの世界に通じる日本発のものを見つけ、守り、伝えたいとい思っています。
今回通巻19号を発刊するにあたり、次世代に繋げたい日本の姿、心を「mura」と表記してリニューアルを行いました。他にも、情報ページを充実させるなど、"ムラの命をマチの暮らしに、マチの力をムラの生業に"を実現すべく、今まで以上にマチとムラとを繋げる雑誌としての位置づけを目指しています。ヴィレッジでもカントリーでもない日本固有のムラ・「mura」が世界共通語となるよう、今後とも是非ご一緒に応援願います。

2006年9月7日 養父信夫
 ムラは自然と共生する社会 
"悠々とした地域生活の総合誌"「九州のムラ」を発刊して10年目を迎えた。郷里九州に戻り、ムラを訪れ、ムラびとと語らい、その地域の風土、風景、風習、風俗、風格、風味、風情といった"風"をマチの人々に伝えてきた。 
「九州のムラ」の取材対象は行政区分上の"村"ではなく集落単位、つまり昔から人々が暮らしてきた"自然村"である。"人の群れるところすべてムラである"とすれば、平成の大合併で行政区分上の"村"がなくなったとしても、先人たちの暮らしの単位であった"ムラ"は、人々がそこに暮らしている限りは存続しうるのである。弊誌が10年前に「九州の村」として創刊した後、通巻第3号からカタカナの「ムラ」の標記に変更したのもそうした思いがあったからである。                   
自分が生まれ育ったムラは福岡県宗像(むなかた)である。父は神官であり、宗像の三女神が祀られる旧大島村(現宗像市)の漁村、それに旧玄海町(現宗像市)の農村で大学生まで過ごした(沖ノ島は神官のみが交代で守る"神の島"であり、集落はない)。"ムラの鎮守の神様"は氏子であるムラびとたちによって祀られ、人々がこの地で暮らしを始めた古より、ムラを見守り続けてきた。津々浦々、山々峰々、人々が暮らすところに、神社があり、その数約八万社ともいわれる。この数はあくまで、ある基準に基づいて神社本庁という全国の神社を統括する組織が把握している神社の数である。自然を崇拝し、巨木や岩、自然現象などに対して畏敬の念をいだき、神を感じ、まつりごとを行ってきた地は、それこそ"八百万の神々"と称されるように、数限りない。 
我々日本人の感覚で言えば「神」を「自然」と置き換えた方が分かりやすい。「古事記」「日本書紀」には自然や自然現象が擬神化した壮大な物語が綴られている。その「自然」は日本においては、実に様々な表情をみせる。四季折々の色彩豊かな顔、大地を潤し、豊穣な実りをもたらす恵みの顔、ある時には台風、地震を代表とする天変地異をもたらす厳しい顔、そのすべてが「自然」であり、ムラびとたちはその「自然」をすべて受け入れ、共に生きてきた。その付き合い方は先人たちの叡智の中で学び、脈々と命を繋げてきたのである。決して奢らず、水の流れのごとく、ゆっくりと、しかし確実に生き抜いてきた。日本人は、「自然」と共に生き、「自然」から生き方さえも学んできた民族なのである。 
○「ムラ」と「マチ」の交流の時代 
 今、その「自然」を守り、命を紡いできたムラが危機的な状況に陥っている。戦後半世紀、あまりにも急激に展開した近代化が、経済の枠に収まりきれない「自然」を切り捨ててきてしまった。その結果、ムラは見捨てられ、農林漁業は低迷し、ムラびとたちの暮らしの手が入ることによって守られてきた「自然」も荒廃した。「自然」の荒廃は「心」の荒廃となってそのまま我々にはね返ってくる。もはや「ムラ」は「ムラ」だけでは成り立たないところまで来ているのである。 
戦前までの「ムラ」社会は、生産活動と消費活動が一つの社会で成り立っていた。ムラ全体が主に第一次産業に従事し、第一次産業を中心にそれら産物を加工する第二次産業、販売する第三次三産業とが、顔の見える範囲、またはせいぜい一人二人で辿れる範囲の中で繋がっていた。あたかも個々の「ムラ」社会が一つの小宇宙をなし、独立した存在として逞しく生きてきたのである。 
戦後の近代化によってこの図式は大きく崩れ、消費する「マチ」と、生産する「ムラ」という対立構造に陥ってしまったのである。 
「九州のムラ」で伝えたいのは"戦前の暮らしに戻ろう"ということではない、「マチ」には「マチ」の良さが、「ムラ」には「ムラ」の良さがあり、それをまずはお互いが認め、もっと交わり、お互いに無いところを補い合い、「ムラ」も「マチ」ももっと豊かな暮らしを実現しましょう"ということなのである。 
 『ムラの命をマチの暮らしに、マチの力をムラの生業に』。これは「九州のムラ」の基本理念として掲げている言葉である。マチの暮らしの中では、もはや「命」を感じることが難しくなってきている。食一つとっても、本当の意味で子供たちに"(命を)いただきます"の意味を伝えることが出来るのであろうか。生産と消費が乖離するほどに、土から離れるほどに、「自然」から隔絶されるほどに、自然界の「命」をいただきながら、我が命が繋がっていく真理を伝えることは難しくなってくる。ゲームの世界ように「命」は簡単にはリセットされてるものではない。それを教科書からではなく、日々の暮らしの中でどこまで伝え、感じられるのであろうか。 
グリーンツーリズムやスローフード(*1)といった運動のよって、マチの人々がムラを訪れ、ムラの暮らしに触れ、そこで「命」を感じ、学び、また自分たちの暮らしに繋げてもらう。また「ムラ」もマチと繋がることによって、経済という力を得て、新しい生業(なりわい)の道を拓いていく。その架け橋に「九州のムラ」がなれればと思っている。 

(※1)スローフード:イタリアで始まった食を守る運動。地域固有の料理、伝統食を守り、生産者を守り、消費者に食育を行う活動を行う。 

○今こそムラの時代 
号を重ねるごとに増えていく読者の方からいただくアンケートハガキには毎号ムラに対しての思いが綴られている。読者層は20代から60代まで幅広いが、各世代のキーワードは少しずつ異なっている。マチに住む50~60歳代は「定年後は自然豊かなところで暮らしたい」といった"定年帰農"、または「ちょっとした菜園で田舎暮らしの雰囲気を味わいたい」といった"農的生活"への憧れ、それに「自然の中での"癒し"」を求めている人が多い。30~40歳代では「子供を自然の中で思いっきり遊ばせたい」と自分が子供のころに体験したことを子供たちに伝えたいと思っている人が増えている。また20~30代の若いお母さん達の中には「"安全な食"を子供たちに食べさせたい」「"環境"を守っていくことが大切」といった内容のハガキも多く見られる。10~20代の若い人の中には「ムラってとても素敵ですね」「廃校に是非行ってみたい」というようなコメントを書いてくる方も増えている。それだけかれらにとってはムラが非日常になってしまったのであろう。「となりのトトロ」で育った世代の独特のムラ観といったところであろうか。       
マチ側がよりバーチャルに、グローバルに、IT化・デジタル化を盲進するほど、その反動として自然豊かで暮らしにリアリティのあるムラを求めているのかもしれない。 

○ ツーリズムの先進地「九州」 
九州はマチとムラとの交流活動である「グリーンツーリズム」が全国的にも進んだ地域である。ツーリズムの人材育成を目指す熊本県小国の「九州ツーリズム大学」、今や年間3,000人もの人々が普通の農家や民家に宿泊することで有名な大分県安心院(あじむ)、"ワーキングホリディ制度"を都市と農村を繋ぐ仕組みに活用し、花卉栽培などの援農でマチの人々を受け入れている宮崎県西米良(にしめら)、体験型観光を積極的に展開し、ムラの人々が先生となってさまざまな暮らしの体験、遊びの体験をメニュー化して交流を行なう熊本県水上など、全国から視察に訪れるような先進的な取り組みを行っている地域も多い。 
農村を舞台に展開されるグリーンツーリズムとは、『マチ』の人間にとっては「田舎を訪れ、人々と交流し、その生活に触れ、様々な体験をする」新しい旅のスタイルの一つであり、『ムラ』にとっては、「農林漁業の第1次産業をベースに加工品や特産品を作り(第2次産業)、更に農家民宿、農家レストラン、直売所などサービス業(第3次産業)まで産業を複合化して地域の経済基盤を作っていく活動」でもある。しかし単なる経済効果だけではない。マチの子供達とムラのお年寄り、サラリーマンと農家や漁師、消費者と生産者・・・グリーンツーリズムによって日常の生活では交わることのない人々が深く結ばれる。それは「マチ」「ムラ」に暮らす人々がお互いに自分自身の生き方を再認識し、その地に生きていることの自信と誇りを取り戻す運動でもある。 
  
○観光と農の融合 
 近年、"九州は一つ"の掛け声のもと、九州の全体で観光振興を進める動きが盛んである。東名阪を中心に都市部の人々だけではなく、近隣の諸国アジアを中心に外国からも誘致しようと行政主導で動き始めた。 
 観光とはそもそもその字が示すように訪れた"国の光を観る"ことである。先人たちの叡智や国を拓くための希望や苦労の凝縮した歴史的建造物、それにそこに暮らす人々の息吹こそが、他地域から訪れた人々の心に残っていくものとなるはずである。 
 このような視点から"新しい旅"としての様々な"ツーリズム"(本来は旅=ツーリズムであるが、日本では従来型の物見遊山的な旅を"観光"とし、グリーンツーリズムやエコツーリズムなどの体験型の観光で少人数の受け入れによる新しい旅を"ツーリズム"と呼ぶことが多い)を九州に組み入れると、新しい九州ツーリズムマップが出来上がってくる。 
歴史的な遺産を拠点とし、そこに暮らす人々との交流の中で、その建造物と地域の生活に根ざした宗教的な係わりに触れる"ヘリテージツーリズム"についても九州は多彩である。 
宮崎県は海や太陽を観光資源とした従来型観光中心の海岸側に加え、宮崎オンリーとしての「古事記」「日本書紀」の神話ゆかりの地を繋ぐ『ひむか神話街道』という山間部を走る道周辺のツーリズム的資源(地域食、伝統文化体験、景観、達人たちなど)を掘り起こし、磨き、繋げ、新しい観光振興を進めている。これはまさに神社を中心としたヘリテージツーリズムである。大分県の国東半島は六郷満山の山岳宗教を中心とした仏閣のヘリテージツーリズム、長崎県平戸・五島列島、それに熊本県天草周辺は教会を中心としたヘリテージツーリズム。それにグリンツーリズムで言えば、大分県の安心院を中心に今や全県下にに100軒もの農家民宿が立ち上がっている。また漁村で展開されるブルーツーリズムでは、大分県の蒲江を中心としたリアス式沿岸沿いの地域や、長崎県松浦地域も積極的に取り組んでいる。エコツーリズムでは、熊本県阿蘇の草原を守る地域の農家の人たちが、自然案内人となり、かれらの共有の土地であり、一般には入れない大草原の絶景に誘ってくれる。阿蘇同様、九州の国立自然公園に指定されている霧島、雲仙、九重なども、地域住民が中心となり進めている。まさに『ツーリズム王国・九州』である。あとは、この新しい観光と既存の観光とをどう繋げるかである。 

○「ムラ」から「mura」へ 
 雑誌「九州のムラ」は次号にリニューアルを行う。「mura」というタイトルに変わる。もちろん「mura」の後には"情報誌「九州のムラ」"という表記は残した上で。 
 今後も九州各市町村の農山漁村の集落、ムラびとたちを取材し、よりローカルに進めていく。しかし、思いとしては、「北海道のムラ」「東北のムラ「信州のムラ」などなど全国をムラムラさせるような事業につなげていきたい。最終的には「世界のムラ」から日本を見てみたい。そうすれば日本人が忘れてしまったものが見えてくるはずである。 
2006年7月24日 養父信夫
「九州の村」から「九州のムラ」に。「ムラ」に変わってから雑誌づくりに携り早、8年。神官の息子として育ち、宗像大島村では波の音が、宗像田島では蛙と虫の音が、子守唄代わりになるほどのムラ育ち。マチに憧れ卒業後は上京し、リクルートに入社。時はバブルの絶頂期。仕事は最先端の情報通信。入社3年目にR事件が世間を騒がせた。コンクリートなマチ中でビジィなビジネスマンとして10年間、離れれば離れるほど、時が経てば経つほどに、故郷のムラのことが見えてきた。日本のマチの中心からムラを見るほどに、見えるもの。それは日本人は「自然」とともにあるべきということ。自然に生きる。自然と生きる。自然から学ぶべき感性を持ち続けること。人々は自然の恵みの中で群れ、ムラをつくり、大地から海原から自然の恵みをいただき暮らしてきた。農業、漁業、林業、命をつなげる生業は、グローバル化する市場経済の中では、世界のムラにとって変わられるだけなのか。"ムラの命をマチの暮らしに、マチの力をムラの生業に"。九州にツーリズムの種を蒔いた「21世紀委員会・ツーリズム部会」のテーマである。時期を同じくして生れた「九州の村」。97年2月から「ムラ」に、そして今回10週年を迎えた。その思いを綴ってみたい。 

一念発起で始めた「九州のムラ」。 
二人三脚。紙面を借りて妻に感謝。(出張の多い夫より) 
石の上にも三年。雑誌の多くは3年内に廃刊するとか。 
四苦八苦の編集作業。最初の号はいつも深夜に。 
五里霧中の雑誌発行。社会には必要な雑誌なの? 
ロクを食むには売らねばならぬ。読者の皆様に感謝。 
七山村から始まった「九州のムラ」物語。 
八山初代編集長の意思を引き継ぎ二代目編集長に。 
「九州のムラ」「九州のムラ」・・、一号一号積み重ね、 
十周年記念号を11月11日に発行いたしました。 
初心忘れるべからず。その思いを込めての発行日です。 

「九州の村」から「九州のムラ」へ。 
そして20周年は「Kyushu no mura」を。 
変わらぬご支援、よろしくお願いいたします。
2005年11月10日 養父信夫