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ムラコラム

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「イタリアの『調味料は自分で調合しましょう』文化」

島村菜津
写真/河村 明

 日本人は、戦後、何でも人任せにすることに慣れてしまったのだろうか。こと食まわりのことを考えると、ことは深刻な気がする。 その上、昨今、次から次に政府や企業や流通のスキャンダルを経験すると、にわかに、今度は過剰なほどに疑り深い消費者が増えたが、そもそも最初から疑ってかかるくらいでちょうどよかったのだと思う。
たとえば、調味料というものひとつを考えてみても、日本人は、人任せにし過ぎて、それが、素材の味をじっくり味わう機会から、却って自らを遠ざけることになっている。 その昔、ある消費者団体の方から、こんな話を聞いた。
 30年ほど前、そのうち日本人は、大量にドレッシングを買うようになるから、その時のために、できるだけ味のない野菜を開発している研究者がいたというのだ。化学調味料入りの、味の濃いドレッシングがあれば、野菜は食感だけでも充分だということだろう。彼女が驚いたことには、本当にその10年後、スーパーの棚にドレッシングがどっと並び始めたのだという。
 そんな現状がある一方で、イタリアでは、今でもサラダのドレッシングは、各自が自由に調合できる。つまり、テーブルにオリーブオイルとワインビネガー、塩に胡椒が置いてあり、個々がその日の体調や好みに合わせて調合する。 家庭でも食堂でも同じだ。
 思うに、日本では、素材にそれはこだわっているレストランや、滋味溢れる野菜を作る有機農家でさえ、しばしば、どこにでも売られている大手の普通の調味料を目にする。それは、ちょっと悲しい。いや、実にもったいない光景である。調味料事情を考えると、醤油も酢も、マヨネーズやケチャップでさえ、日本では、1社か、せいぜい5社の大手が市場をほぼ独占している。それらは、安い外材や添加物の恩恵にあやかった商品が圧倒的に多い。けれども、地産地消が叫ばれて久しい日本に、私は、その辺にも、地方分権と新しいビジネスの可能性を感じている。
 要は、私たちのような、ただの食べる人が、もう少しだけ、日常の食を、無理をせず楽しめる範囲で、少しづつ、自分の手に取り戻すことである。イタリアの調味料は、自分で調合しましょう文化は、期せずして、日本のように遺伝子組み換え油を、日常的に取り込むことの防波堤にもなっているのである。

島村菜津(しまむら・なつ)
ノンフィクション作家。1963年福岡生まれ、東京芸術大学美術学部卒業。近著に「スローフードな日本!」(新潮社)「スローフードな人生!」(新潮社)で日本にスローフード運動を紹介した。 



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「子守唄」


由布院盆地  中谷健太郎


 8月11・12日は降ったり、照ったりの狐日和だった。弟に声をかけて村の初盆の家々を周る。行く先々に懐かしい人の話が湧いて出た。村の地下層を流れている「記憶」の井戸だ。年に一回、そいつを〈汲みだす〉祭りがある。「初盆」がそれだ。弟と二人、合計140歳で「井戸掘り」に出かける。いやはや村の地下水も、古くなったなあ。
 ところで今年5月末に孫が生まれた。「ぼた餅のような顔」と評議が一決したので、ジジは便所に入って独り、大分・南部の「宇目の唄げんか」を唄った(意気地なしだね)。
〈こんこ可愛いや、ぼた餅顔よー、ヨイ、ヨイ、黄な粉つければ、なおよかろ、ヨーイ、ヨーイ、ヨーイ〉。
 私が子供であった頃、弟の子守に来ていたチイちゃんが唄っていた。チイちゃんは宇目から遠くない「保戸島」の子だった。保戸島では、男は長い遠洋漁業に出かけ、女は家と島を守る、子供は親を援けて「口減らし」の旅に出る、それが「子守だ」と聞いた。チイちゃんは、牛蒡を洗う時も、米を研ぐ時も、ゴミを運ぶ時も、焚き付けを燃す時も、弟を背中にくくりつけて唄っていた。〈要らん世話焼く他人の外道、ヨイ、ヨイ。焼いてよければ親が焼く、ヨーイ、ヨーイ、ヨーイ〉。
 その頃、池の端の鎮守さまに梟が棲みついて、陽がかげると静かに啼いた。梟のことを由布院では「コウズ」という。「コウズは何ち啼きよるか、知っちおる?」とチイちゃんが訊くので私は「ホウ、ホウ、じゃろう」と答えた。「違うッ」とチイちゃんが叫んだ。「ボロ着て奉公、ボロ着て奉公、ち啼きよるんじゃ」チイチャンは、にんまり笑った。
 数日後、私は母の小箱から小さな緑色の「耳飾」を摘まみだして、チイちゃんに呉れてやった。母と一緒に「物々交換」の「食べもの買い」に出かけたとき、誰も採り上げてくれなかった代物だ。緑色の眩しいガラスのようだった。
 「フーン」詰まらなさそうに受け取ったチイちゃんは、その日のうちに居なくなった。「風呂敷包みを抱えて駅におったで」と教えてくれる人もいた。一ヶ月ほど経って母が「耳飾」が見付からんとバタバタしていたが、すぐにあきらめたようだった。
 みんな忘れた、そして3年が経った。
 ある夏の日、私宛に小さな郵便小包みが届いた。発送主の名前に覚えはなかったが、包みの中の、また包みの中の、紙の中から緑色の「耳飾」が出てきた。私はそれを隠し持って大人になり、母を見送り、今年、ジジになった。孫たちが帰ってきたら「鯉のぼり」を歌うつもりだ。〈甍の波と雲の波、重なる波の中空を、橘かおる朝風に、高く泳ぐや鯉のぼり〉。古い地下層に新しい水を...といっても大正2年の文部省唱歌だけどね。

イラスト:宮崎 典子

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中谷 健太郎(なかや・けんたろう)
1934年、大分県湯布院に生まれる。明治大学を卒業、東宝撮影所に入社。62年、父の死により帰郷。旅館亀の井別荘を継ぐ。以降、ゆふいん音楽祭、牛喰い絶叫大会、湯布院映画祭などまちづくりに取り組む。著書は「湯布院に吹く風」など。
「大好きな雲仙で、大好きな人々のもとで挑戦したい」

大城戸七海

moriyama.jpgこの思いが実り、8月末から長崎県雲仙市吾妻町の農事組合法人「守山女性部加工組合」にて研修を始めています。3月に実施された「九州 ムラの生業プロジェクト」(農林水産省事業「田舎で働き隊!」)に参加してから約半年。こうしてまた同じ場所に戻って来れた幸せをかみしめています。
 加工組合は地域の素材を守り育む〝女性マイスター集団〟。特に、加工組合の看板商品である「雲仙こぶ高菜」は、日本で初めてスローフード国際本部(イタリア)からスローフードの最高位「プレシディオ」の認定を受けた希少な食材です。加工組合の皆さんは「雲仙こぶ高菜」をはじめとした在来野菜を守り続けています。
 半年前の研修では、「雲仙こぶ高菜」の魅力とそれに懸ける地域の方々の想いを、五感のすべてを使って感じ取りました。「良さが分かる人に買ってほしい」「ホンモノを発信してほしい」...研修生7人も同じ思いになりました。魅力をどう発信しようかとみんなが一丸となって夜通し考え、加工所のことはすっかり他人ごとではなくなりました。
 もちろん半年経った今も研修生一同加工所のファンであり、私は二度目の「田舎で働き隊」に参加することに決めました。それはもう一度、第二の故郷である吾妻町のこの加工所で自分にできることを探し、挑戦したいと思ったから。また、将来、地域に根差した仕事をしたいと思っていた私にとって、腰を据えて地域で働けるなんて絶好のチャンスだと思ったからです。
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 これから半年間、夢を大きく掲げて活動します。まずは地域の魅力を発掘し、「ホンモノ」を伝える術を身につけたい。ブログを書いたり、出張販売でお客さんと対話する、そこから始めたいです。また、研修先である雲仙市を「スローフードで頑張っている地域よね」と多くの人に知ってもらいたい。前回の研修で、雲仙には地域の食文化を守る基盤があることを知りました。「雲仙こぶ高菜」のように一つの地域の中で「種」が守られ、その「種」が大事に育てられ、そして、育ったものが地元の人々の手で加工品(饅頭や漬け物など)として生まれ変わるというサイクルがある。地域の皆さんと一緒に活動し、先駆的な取り組みを雲仙から発信したいと思っています。
 私には、女性マイスターの皆さんのように経験も知識もありません。それに前回とは違って、一人での飛び込み参加です。だからこそ、学生や消費者といった視点を生かして、自分にできることを考えたいと思います。大好きな土地で大好きな人々のもとでの研修は、勉強の毎日になるでしょう。
 これから始まる雲仙ライフ、期待で胸がいっぱいです。

雲仙こぶ高菜
写真/平 たけし

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大城戸七海(おおきど・ななみ)
1990年生。福岡市出身。慶応大学総合政策学部2年。「九州 ムラの生業プロジェクト」(農林水産省事業「田舎で働き隊!」)として長崎県雲仙市で研修中。